マズローの欲求とかいう謎ピラミッドの話がありまして
一番下が生理的欲求(生きることに直結するどうのこうのだったと思う)で
一番上が自己実現の欲求だった気がするのですが調べて書いていないので間違えている可能性大です。→大体あってた(ぐぐった)
何でこの話をするかというと、勉強する気持ちって「体調がいい」「社会的に安定している」の2段階がそろっている上にしか湧いてこないんじゃないかと・・そうでもないのかな。
少なくとも自分は今週前半は頭痛が痛すぎて勉強する気がまったくおきませんでした。
げぼー
今日は元気になったのでなんとなく振りだけでも勉強を再開しようと思い
例によってPythonの本をちょっとだけ勉強しました。
教師なし学習…クラスタリング…相関のこと言っているように見えるが
文章だけだとまったくわからない。たぶん私は前の勉強のときにここらへんで
他の本を読みにいっていたんではないだろうか
前項の「教師あり学習」を学習する段階で既に見に行っていた。
猫本ー!早く来てくれーッ!!
でもPythonって参考書出まくっているので、探せば分かりやすい本もあるかもですね。
■全然勉強と関係ない話
思うところがあって子供のころに読んでいた小説を読んでいました。
当時と同じ気持ちでは読めませんが、自分の思考の癖を作った根底がどこかにあるなーと思ったので。
スキルを上げたいなー(上げて自分のお仕事が楽になればいいな→楽に生きられればいいな)と思うことがよくあります。
ですが、テクニカルスキルだけ上げる話に集約できるかというと必ずしもそうではなく
特に「仕事しやすさ」を考えていこうとすると、どうしてもソフトスキルの話にぶつかります。
仕事しやすさだけじゃなく、何かを学んでいくときもそうかな。。
ソフトスキルの話にぶつかると、自分の思考の癖に向き合わなきゃいけないときが出てきて「なんでこういう考え方をするのかなー」を辿る日もあるわけです。
最近思ったのですが「違和感」をおぼえる場面って人によって違って、それでいて正解不正解がないですよね。
自分が違和感を覚えるのにそれを無かったことにするのって結構消耗する気がします。
テストの仕事って違和感を駆使してなんとかする仕事なので違和感に敏感な人多いんじゃないかと推測しますが、そんな人々は、自分の違和感と、周りの考えがぶつかったときにどうしているのでしょうか?
ときには諦めたり、自分が尊敬する人が言っていることなら多少の違和感は目をつぶったりもするのでしょうか?それとも、納得するまで頑張る?
ねますやあああ